同志社クイズ【 Level 5-2 】

同志社クイズ【 Level 5-2 】

各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。


Q1,
1874年7月、新島はアンドーヴァー神学校をめでたく卒業し、9月には、牧師になるための儀式(按手礼)をボストンのある教会で受けた。その教会名は?


A; マウント・ヴァーノン教会  
B: ハンコック教会


Q2,
 新島はヨーロッパ旅行中、1884年8月、アルプスで激しい呼吸困難になり死を覚悟し、山頂のホテルで英文遺書を認めた。その場所は?


A: ツェルマット  
B: サンゴタール


Q3,
 新島は寄付金の一部を使って将来の大学用地のために、同志社北部のある旧藩邸(約七千坪・23100㎡)を購入した。死去する1年前の事である。しかし、新島の死後、財政的に逼迫した同志社は大学設立の実現を待たず売却してしまった。旧藩邸とは?


A: 旧土佐藩邸   
B: 旧彦根藩邸


Q4,
 ワシントン大聖堂には新島の全身ブロンズ像が建っている。世界の様々な地域から「キリスト教信仰の理想を体現した人物93人が選ばれた。
人物選考は大聖堂建築家・フィリップ・フローマンを含む建築家委員会が行った。新島は極東地域から選ばれた一人であるが、アジア、オセアニア地域からは何人選ばれたのか?


A: 3人  
B: 5人  
C: 10人







↓ 解答はこちら ↓




《解答》
1,A
2,B
3,B
4,A



◆解説,1
 新島の按手礼は、本来ならば「アメリカの父」ハーディー家が所属するボストン有数の教会、オールド・サウス教会で行なわれるはずであった。けれども当時、移転工事中であったので、近くの別の会衆派教会が臨時の会場となった。新島は按手礼を受けて正式に牧師となった日本人第一号である。なお、ハンコック教会は、マサチューセッツ州レキシントンにある会衆派教会。新島が神学校卒業直前の1874年5月10日に初めて説教(英語)を行なった記念すべき場所である。


◆解説,2
 同志社を開校して9年後、新島は激務のために長期の静養が必要なほど健康を損なった。ハーディーから費用負担の申し出があったために、1年半にわたる欧米旅行とボストンへの「里帰り」を敢行した。渡米の途次、イタリアでの避暑を経て、スイスのツェルマットからアルプスのサンゴダール峠に向けてピクニック気分で登山をしたが、あと1.6キロの所で心臓発作に襲われた。10メートル進むたびに立ち止まって息を継ぎながら、ほうほうのていでようやく峠のホテルに辿り着いたものの、体調は悪化する一方であった。医者も呼べないため、死を覚悟した。気を失いかけながら、持参していたスケッチ帳の画用紙2枚に英文で遺書を認(したた)めた。遺体はミラノに葬ってほしい、遺髪の一部を京都の妻と両親に送ってほしい、などとある。


◆解説,3
 同志社が同地を手放した時、これを購入したのは市内に医院を経営する佐伯理一郎であった。現在は京都市立下鴨中学校敷地ほか宅地になっている。ちなみに佐伯は、それ以前にも同志社から同志社病院と京都看病婦学校を譲渡されている。同志社が維持しかねる不動産を一介の街医者が入手できたのかは、なぜか。謎は不明であるが、佐伯夫人が「大和の山林王」土倉(どぐら)庄三郎の四女(小糸)であったことが、一因ではなかったか。


◆解説,4
 ワシントンDCにある国立ワシントン大聖堂(聖ペテロ・聖パウロ教会)には、アメリカ監督教会(聖公会)の首座が置かれているが、超教派の色彩が強く、大統領の葬儀など国家的な式典にも使われる。起工は1907年、竣工は1976年である。特徴のひとつは、「レレド」(reredos)と呼ばれる中央聖壇後背部の飾り壁で、93体の人物全身像で彩られている。旧約・新約時代の預言者や使徒、福音書記者、さらには聖徒などのほかに3名のアジア・オセアニア出身者が含まれる。中国人説教者、マオリ人将軍(ニュージーランド)、そして新島襄(像の制作は1935年)である。その後、2人目の日本人として賀川豊彦の像が、家族ならびに友人たちによって寄贈され、北側のアーケードに飾られている。ちなみに、同志社においては、校友会などの外郭団体は別にして、新島の全身像はもちろん、胸像を制作することはない。なぜなら、「汝(なんじ)らはいかなる像をも造るなかれ」と十戒(第2項)が戒めているからである。