同志社クイズ【 Level 5-2 】
同志社クイズ【 Level 5-2 】
各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。
Q1,
同志社は廃校になった熊本洋学校の生徒の一部を受け入れるために余科(神学科)を新設した。彼らは「熊本バンド」と呼ばれた。何人の学生が入学してきたか?
A: 約20名
B: 約40名
C: 約100名
Q2,
1889年秋、病躯の新島は全校生徒の前で、「今から大学設立のための募金活動に出張するが、もし、自分が無事に戻れなくても、皆で協力して私の遺志を継ぎ大学設立を完成してほしい」と別離と希望を述べ関東に向かった。結果は、時の大蔵大臣の協力を得られる寸前に斃れてしまった。大蔵大臣とは?
A: 松方正義
B: 渡辺國武
Q3,
新島の少年時代に安中藩に気骨ある家老がいた。家老は藩主に勇気を奮ってしばしば諫言したため左遷されたが、新島にとっては生涯で初めて出会った理想の人物であった。その家老とは?
A: 田島順輔(じゅんすけ)
B: 尾崎直記(なおのり)
↓ 解答はこちら ↓
《解答》
1,B
2,A
3,B
◆解説,1
熊本洋学校が廃校されたとき、ただ一人の教員、L・L・ジェーンズの感化を受けてキリスト教に傾斜していた生徒、卒業生たちが何人かいた。宣教師ではなかったが、宣教師並みの伝道効果が表われたことは、洋学校の設立者たちには大きな誤算であった。そのため、同校は廃校され、ジェーンズの契約更新もならなかった。ジェーンズはキリスト教の感化を受けた生徒や卒業生たちに、出来たばかりの同志社に転入学することを勧めた。同志社に来た彼ら俊才たちは、同志社の宣教師たちから「熊本バンド」と呼ばれた。彼らのうち、すでに洋学校を卒業した学生のために、同志社は特別クラスを新設した。実質的には「神学科」であるが、府庁との縛りから、曖昧な「余科」という名称にした。これより3年後、同志社は最初の卒業生15名を出すにいたるが、全員「余科」生であった。
◆解説,2
新島の最後の募金活動は、関東であった。医師の反対を押しての出張であった。主たる目的は、群馬県知事らの協力のもと出身地である群馬県での募金、ならびに大蔵大臣の松方正義の支援を得て横浜で大々的な募金活動を展開することにあった。関東出張に赴くにあたっては、全校生徒をきゅうきょチャペルに集め、声涙共に下る別離のメッセージを贈った。彼が最期に生徒、学生たちに願ったことは、自分の志を引き継いでくれる「小新島」となって、事業を成就してほしいことであった。なお、渡辺国武は、当時の大蔵次官で、1892年に松方の後任として大蔵大臣に就任している。新島との接点はない。
◆解説,3
新島家は家老の尾崎直記とは家族ぐるみの交流があった。新島の母、登美は独身時代、彼の家で奉公していたので、尾崎の媒酌で新島民治と結婚した。尾崎は類まれな「気骨のある人」であったので、新島にとっては漢学の教師、添川廉斎(れんさい)を敬慕したのと同様に、深く私淑した恩師であった。田島順輔は新島の蘭学教師。