同志社クイズ【 Level 5-1 】

同志社クイズ【 Level 5-1 】

各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。


Q1,
 新島が仕えた安中藩主は学問の理解が深く国内藩主の中で、最も傑出した学者大名と言われていた。藩主の名前は?


A: 板倉勝明(かつあきら)  
B: 板倉勝静(かつきょ)



Q2,
 新島が13歳の時、藩主は高名な蘭学者田島順輔に優秀な青年の指導を託した。選ばれた青年は、最年少の新島を含め何人だったでしょうか?


A: 3人   
B: 15人


Q3,
 新島が作成した欧米教育視察報告書の草稿は、後に文部省から15巻の田中不二麿撰として出版された書籍の元となり、日本の教育制度に大きな役割を果たした。その書籍名は?


A: 理事功程   
B: 国語元年







↓ 解答はこちら ↓




《解答》
1,A
2,A
3,A




◆解説,1
 新島が仕えた板倉勝明は、新島から見て「国内の藩主たちのうちの最も傑出した学者として有名であった」。勉強好きな新島少年に目を掛けて将来を嘱望したが、後を継いだ勝明の弟、勝殷(かつまさ)は「亡くなった兄君にははるかに劣っていた」。新島はついには「藩主に仕えることには、もう全く厭気がさした」。こうして「家出」作戦を計画し始めたことが、海外脱出につながった。なお、板倉勝静は安中藩の兄弟藩である備中松山藩(現岡山県高梁市)の藩主で、幕末は最後の老中のひとりとして将軍・慶喜に仕えた。戊辰戦争の敗戦で、新政府軍の追及から逃れて、函館まで逃げ延びた。


◆解説,2
 新島の蘭学の師、田島順輔は、近江(滋賀県)日野の出身で、大阪と江戸で洋学を学んだ。1851年に板倉勝明に召し抱えられ、安中藩の青年藩士に蘭学を伝授した。数年後、田島はその才能を買われて長崎伝習所に転任したため、江戸の安中藩邸を去らざるをえなくなった。


◆解説,3
 欧米を巡視した岩倉使節団は、帰国後、視察報告書を出すことになっていた。担当は各庁を代表して使節団に参加していた理事官であったので、報告書は『理事功程』というタイトルであった。しかし、実際に出版されたのは、ごく少数の官庁であった。なかでも文部理事官であった田中不二麿の名で出されたものは、出色の出来であった。その一部は新島の草稿に基づくが、彼の名前は出ない。新島による草稿は『新島襄全集』に収録されているので、『理事巧程』原文との異同を検証することが可能である。なお、『国語元年』は井上ひさしによるテレビドラマのシナリオ(中公文庫、1985年)。