同志社クイズ【 Level 4-5 】

【同志社クイズ level 4-5】

各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。


Q1,
 岩倉使節団には、約50人の留学生が同行した。その中に後に女子英学塾(津田塾大学の前身)の創立者となる6歳の津田梅子らの少女も含まれていた。女子留学生は梅子を含めて何人?


A: 3人   
B: 5人   
C: 10人


Q2,
 1871年、熊本藩設立の熊本洋学校が開校した。生徒たちは熊本に限らず周辺の俊才が集められていた。授業はただ一人のアメリカ人教員がすべての教科を英語で担当し厳しい指導を行っていた。その熊本洋学校が廃校になり優秀な生徒達が同志社英学校に次々と入学してきた。熊本のアメリカ人教員は宣教師ではなくウエストポイント(米国の陸軍士官学校)出身の元軍人であった。その教員の名前は?


A: W・S・クラーク  
B: L ・L ・ジェーンズ


Q3,
 新島が同志社校長時代、日本の徴兵令は、一般の男子は20歳が徴兵適齢であったが、学生は卒業するまで徴兵を免れる特典を受けていた。しかし、1883年12月の徴兵令改正後、私立学校の学生にはその特典は認められないことになった。苦しんだ新島は1884年2月8日、「改正徴兵令に対する意見書」を持参して上京し、それを誰に提出したか?


A: 伊藤博文  
B: 大山巌







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《解答》
1, B
2, B
3, A



◆解説,1
 岩倉使節団が同行した留学生の中で最も有名なのが津田梅子である。女子5人中、もっとも若い6歳であった。それだけに、新島は彼女の父親(津田仙)と江戸の同じ塾で学んだ関係からも、不安がる梅子を可愛がった。後に新島八重と交流が見られる会津の同郷人、山川捨松も女子5人組のひとりで、大学を出た最初の日本人女性となった(ちなみに男性では新島が第一号)。帰国後は薩摩出身の陸軍卿〔きょう〕・大山巌〔おおやまいわお〕と結婚し、外交面でも「鹿鳴館の花」と呼ばれるような華々しい活躍を示した。


◆解説,2
 旧熊本藩の有志は、明治維新で薩長土肥に遅れをとったのを挽回するには教育に限るとの信念から、それまで九州にはなかった洋学校の設立を企画した。指導者(教員)には宣教師ではなく、スパルタ教育ができるアメリカ人軍人を希望した。彼らのお眼鏡にかなった人物が、L・L・ジェーンズであった。宣教師なら長崎でリクルートできるが、旧軍人は不在なので、わざわざアメリカから南北戦争の従軍経験者を呼び寄せた。札幌農学校の教頭(実質は校長)に招かれたW・S・クラークも、従軍経験者である。新島はアーモスト大学で彼から化学を学んだので、クラークは新島を「私の最初の日本人学生」と呼ぶ。クラークはいわゆる「札幌バンド」の父である。


◆解説,3
 徴兵令の改正は、露骨に言えば「私学いじめ」である。このため、官立学校へ転向する在校生が何人も出たうえ、あらたに入学する志願者が減少するなど、同志社は存続の大ピンチに陥った。新島は交遊のあった有力政治家を頼って陳情を繰り返す。そのひとりが岩倉使節団副使であった伊藤博文である。新島はたとえ在校生がゼロになろうが、同志社の看板は下ろさないとの不退転の構えで難局にあたろうとした。ちなみに伊藤は首相在任中に夫人と共に一度、同志社を訪ねている。大山巌は薩摩出身の軍人で、陸軍の創始者である。会津出身の山川捨松と再婚した。新島は1884年2月9日、徴兵猶予の特典が私学には適応されないことに対して陳情するため、大山陸軍卿を自宅に訪ねたことがある。