同志社クイズ【 Level 3-3 】
同志社クイズ【 level 3-3 】
各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。
Q1,
帰国後、最初に赴任した大阪では、キリスト教主義学校の設立が実現しそうであった。しかし大阪府知事の反対で実現しなかった。この知事は長崎のキリシタン弾圧を強行した人物であった。その知事とは?
A: 渡辺 昇
B: 北垣国道
Q2,
新島は1885年8月29日、 二度目の渡米中、ハーディー家の別荘で自伝的手記を英文で書いて夫妻に進呈した。そのタイトル(仮題)は?
A: 私の青春時代
B: 私とキリスト教
Q3,
1887年6月17日、新島は八重を伴って同志社仙台分校とでもいうべき学校の開校式に校長として臨んだ。前年に仮開校した同校は、本開校したのを契機にこの年、校名も変更された。新しい校名は?
A: 宮城英学校
B; 東華学校
↓ 解答はこちら ↓
《解答》
1,A
2,A
3,B
◆解説,1
大阪に赴任した新島は、伝道活動のかたわら、さっそくキリスト教主義学校の設立にも着手した。その際、アメリカで知り合った木戸孝允の力は大きかった。彼の尽力で資金や認可が得られる見込みがたった。長州出身の富豪(礒野小右衛門)からの資金提供は確定したが、最後の局面で府知事の渡辺昇から認可が降りず、あと一歩のところで実現には至らなかった。渡辺は江戸の剣道場で木戸とは兄弟弟子だった関係から木戸閥ではあったものの、幕末には大村藩出身ということもあって長崎のキリシタン弾圧を取り仕切った人物であった。そのために、木戸の説得にもかかわらずキリスト教嫌いを通した。なお、北垣国道は京都府知事。
◆解説,2
新島には自伝がない。しかし、自伝的な短い手記が2篇(いずれも英文)あるので、他の資料を加えて岩波文庫の『新島襄の自伝』として出版されている。手記の1篇は「なぜ私は日本を脱出したのか」、もう1篇はそれより詳しい「私の青春時代」である。もともと無題であったが、新島研究家の森中章光が文中の一句を取って、“My younger days”と仮題をつけたのが、いまも踏襲されている。
◆解説,3
新島は二度目の渡米中、帰国すれば東北地方に同志社分校を新設したいという夢を抱き始めた。仙台出身の政財界の有力者からも支持が得られたので、新島は帰国後に「宮城英学校」として仮開校させた。翌年、「東華学校」と改称のうえ本開校した。同志社分校扱いされて、新島が校長に就任した。しかし、彼の死後、時代風潮がキリスト教には逆風となり、廃校された。同時に創立された仙台北教会は今も健在である。