同志社クイズ【 Level 2-5 】
同志社クイズ【 level 2-5 】
各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。
Q1,
ボストンを去った新島は、開通したばかりの大陸横断鉄道でサンフランシスコに行き1874年10月31日、コロラド号で出航、10年ぶりに日本の港に到着した。到着した日本の港は?
A: 横浜
B: 神戸
Q2,
新島は彼の健康を心配していた周囲からいつも休養を勧められていた。札幌や伊香保温泉などで避暑をしたりして体調管理に努めていたが、病弱な自分を新島は冗談を交えて自らなんと名乗っていたか?
A: 病気の問屋
B: 病気のデパート
Q3,
新島は群馬で募金運動中に発病し、神奈川県大磯の旅館に移ったが、回復せず永眠した。新島の臨終の場となった旅館の名は?
A: 百足屋
B: 大磯館
↓ 解答はこちら ↓
≪解答≫
1,A
2,A
3,A
◆解説,1
新島の海外生活(第一次)は10年に及んだ。函館出港が1864年7月18日、横浜帰港は1874年11月26日である。航路は行きが大西洋、帰りは太平洋を渡る。前者が1年を超える長旅であったのに対し、後者(サンフランシスコ~横浜)は27日を要しただけである。1884年から翌年にかけて新島は再度、欧米に出向いているが、この時も行きは大西洋、帰りは太平洋である。つまりは生涯にわたって二度、世界一周を遂げている。
◆解説,2
新島は「病気の問屋」、「病魔の囚人」を自称するほど、多病であった。そのため、健康には留意して、避暑などを積極的に行うように努力していた。避暑に関して国内で言えば、札幌、伊香保以外に比叡山、清滝(京都市郊外)、播州(兵庫県瀬戸内)、福島県(高湯温泉)などで避暑をしたことが知られている。そうした新島が手紙の中で言及する自身に関わる病名は、実に20を軽く超える。なかでも自分では、心臓病で急死するだろうと想定していた。そのため、東京では森有礼の紹介により帝大教授でドイツ人医師のE・ベルツから診断を受けたり、後に陸軍軍医総監となる橋本綱常のような日本人名医にも診断を仰いだりしている。しかし、新島は大学設立募金運動のために時にはドクターストップを無視して出張を決行した。日頃から、「畳の上では死ねない」と口にしていたことからも、戦場で討ち死にする武士の生きざまが理想であった。実際の死因は急性腹膜炎症(盲腸炎)であった。
◆解説,3
新島は最後の関東出張中、前橋で倒れた。そのため東京へ戻り治療もしたが、好転しないために温暖な湘南に移って静養と加療に努めることにした。大磯では教え子の徳富蘇峰の斡旋で百足(むかで)屋旅館の離れ屋で闘病生活を送った。しかし、薬石効なく1890年1月23日に永眠した。旅館跡地の傍には「新島襄先生終焉之地」碑が立つ。揮毫は蘇峰である。同志社は毎年、永眠記念日には碑の前で式典を行なう。