アーモスト大学における記念イベントを含む新島襄の足跡を辿るアメリカツアー 報告レポート
新島襄の志を育んだハーディ・ワールドを巡る
同志社創立150年記念アメリカツアー2025
本井康博(元同志社大学神学部教授)
ハーディ旧邸(ボストン)
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ハーディ旧邸 (5連棟の1棟)
ボストン。この街の高級住宅街、ビーコンヒルの一角(ジョイ通り四番戸)に居住する資産家の一人がA・ハーディで、貿易会社(ハーディ商会)の経営者であった。地下一階、地上四階のこの邸宅で、家族六人で生活していた。
そこへいきなり出現するのが、ジョー(Joe)。一八六五年十月のことである。
ハーディは、部下のテイラー船長から上海で自社の船(ワイルド・ロ―バ―号)に乗り込ませ、ジョーと名づけたアジア人の青年を世話することを強く薦められた。しかし、すでに四人の男児(年齢は四歳から十七歳)のほか、亡き恩人の遺児、J・M・シアーズ(二歳の男児)も引き取っていたので、ボストンに流れ着いた若者を六人目の息子(二十二歳。年齢的には長男に相当)として面倒を見る可能性は限りなく低かった。
ハーディは逡巡し、「召使としてならば」と答えた。が、念のために母国からから脱国した理由を英文で書かせてみたところ、その志に胸打たれた。そこで留学生ならびに家族の一員として引き取る決意を固め、ジョーをジョゼフと改めさせた。
新島襄の留学生活はこうして始まった。ジョゼフはハーディ夫妻の期待を裏切らなかった。フィリップス・アカデミー(高校)から大学、神学校(大学院)まで、三つの学校に学んで牧師の資格を取得した。そもそもハーディ自身が牧師になる志を抱いてフィリップスに入学したものの、健康と学費の両面で支障が生じたために中退した。健康が回復した後は、実業界に入り資産家として大成した。
夫人(スーザン)も男児四人のうち、せめて一人は牧師に育てたかったが、その夢は実らなかった。そうした夫妻にとって、アジアから転がりこんできた難民同然の新島だけが、自分たちの挫折した夢をみごと実現してくれたのである。それだけにジョゼフは実の息子以上に愛情を注ぎたくなるような存在であった。新島にとって夫妻が「アメリカの父母」なら、夫妻にとって新島は「輝かしい息子」にほかならなかった。
オールド・サウス教会(ボストン)
ハーディ夫妻は篤実な会衆派(Congregationalism)の信徒で、ボストン有数の会衆派教会、オールド・サウス教会の有力会員であった。この教会は、イギリス(オールド・イングランド)での宗教的な迫害から逃れ、信仰の自由を求めてコッド岬のプリマス港に流れ着いた「ピルグリム・ファーザース」(巡礼始祖)やその子孫たち(いわゆるピューリタンと呼ばれる信徒たち)によりボストンで立ち上げられた。彼らは同地を拠点にしてニューイングランド(合衆国東北六州)の形成に大きな力を発揮した。
会衆派は教会形成だけでなく、海外伝道(ミッションの設立)や教育(学校の設立)にも先駆的な働きを果たした。その成果が、ハーバード大学(一六三六年)、オールド・サウス教会(一六六九年)、アメリカン・ボード(ABCFM、一八一〇年)、アーモスト大学(一八二一年)などの設立である。
ハーディはオールド・サウス教会では役員、とくに会計として教会経営に尽力したので、新島は彼の実子のように目された。新島はこの教会で受洗はもちろん、入会(会員)もしていないにもかかわらず、「輝かしい会員」扱いされている。その好例は創立三百五十年を記念するメダル(二〇一九年)である。前回の訪問がたまたまその年にあたったので私は三人の名前が彫られたメダルを貰った。筆頭は建国の父、ならびにボストン地ビール名としても有名なS・アダムズ。続く二番手が新島である。ボストン最古級の歴史を誇り、歴代会員(所属信徒)はハーディ家を含めて何万人にも上るにかかわらず、である。
新島がニューイングランドの会衆派から受けた影響は計り知れない。進学した三つの学校もすべて会衆派系であった。後年、彼は「自由教育、自治教会、両者併行、国家万歳」を「畢生(ひっせい)のモットー」として活動するが、自由と自治は会衆派が最も重要視する原則であり、教育と教会を両者併行させるのもまた同派の特徴であった。教育者にして宗教者という新島の二刀流の生き方は、会衆派から学んだものである。
フィリップス・アカデミー(アンドーバー)

良心碑の前での参加者一同
渡米したジョゼフがまず送られたのがフィリップス・アカデミーで、ボストン北方(アンド―バ―)にある名門高校である。全寮制をとるキリスト教主義寄宿学校としては全米でも最古級の歴史を誇り、入学困難校である。
日本で英語教育を全く受けていない新島が、これほどの伝統校になぜ入学(しかも学期の途中の一八六五年十月末に)できたのか。ハーディ抜きには考えられない。同校はハーディ自身の母校であり、彼が理事(新島以後には理事長)を務めていた会衆派の学校である。同校最古の校舎は「ハーディ・ハウス」と命名され、現在も現役である。その傍に、同志社が新島の生誕一五〇年を記念して一九九三年に寄贈した「良心碑」が立つのも奇縁である。
全寮制を敷いて人間教育(リベラル・アーツ教育)を行なうこの学校で、新島は例外的に近所(ヒドォン家)に下宿することが認められたのも、ハーディの配慮からである。すでに二十一歳(今なら大学三回生)の新島には、歳の離れた高校生との共同生活は辛いことも多かったと思われる。
当時の校地は、同じ教派の女子校(アボット・アカデミー)と大学院(アンド―バ―神学校)に隣接していたが、その後、両校の校地と校舎はすべてフィリップスのものとなったので、現在は広大な校地を保有する。
アーモスト大学(アーモスト)
北田楓乃さん(同志社香里中学校2年生)
家族そろって参加
新島のフィリップス(三年制)在籍期間は、正味一年八か月。それだけに正規に卒業したとは考えにくい。しかし、特例的に修了を認められたのか、一八六七年九月には晴れてアーモスト大学に入学(ただし選科生)している。二十四歳の新入生である。フィリップスと同様に、ハーディはアーモストの理事でもあったので、新島の入学には彼の威光が遺憾なく発揮されたはずである。ハーディは懇意にしていた有力教授(後に学長)のE・T・シーリーにいわばホスト・ファミリーとなることを要請した。
シーリーなどの指導を受けて、新島は三年でカレッジを卒業し、日本人初の学士号(理学士)を取得した。ちなみに後年(一八八九年)、新島に対してシーリー学長はLL.D(名誉法学博士号)を授与した。これまた日本人初の栄誉である。学歴の点でも新島はアーモストにとって「輝かしい存在」となった。
ところで、アーモスト大学はフィリップス同様に会衆派の名門リベラルアーツ・カレッジとして名を知られていた。歴代の学長はすべて(現職の、あるいは元)牧師が務め、卒業生の四十%以上が毎年、神学校に進学し伝道者になったことから、世上「牧師の製造工場」の異名をとるほど会衆派色が濃厚であった。
それを象徴的に示すのが、ジョンソン・チャペルである。「丘の上のカレッジ」を目指したアーモストは、丘の頂に立つこのチャペルをランドマークとする。今回、同志社はここで特別集会を開いた。集会の二部では、同行した同志社の四つの中学校から生徒が各自の志について英語で想いを披瀝した。澤嶋興志郎君、北田楓乃(かの)さん、奥田恵麻(えま)さん、田尻美咲希(みさき)さんがそれぞれ英語で自分の志を表明した。彼らの英語力の高さや内容については好評を博した。今回ツアーに参加した中高生たちは、五十年後の同志社創立二百年の記念集会にも参加が見込めるので、今回、披瀝した各自の夢と想いとを忘れないでいてほしいと願う。ボストンで語学研修中の同志社小学校(二十七人)と同志社国際高校(十二人)の生徒も駆けつけた。
新島襄の肖像画(ジョンソン・チャペル)
ジョンソン・チャペルと言えば、新島襄の肖像画である。会堂内の正面右の壁、いわゆる“honored place”(「名誉ある場所」)と呼ばれる一等地に掛けられている。今回の記念集会で歓迎スピーチを披露したS・C・モース教授(アーモスト大学)もレジュメに「アーモスト大学で最も重要な建物であるジョンソン・チャペルの際立った場所」(日本語原文のまま)と記す。
アーモスト詣(もう)でをする同志社人の最大の狙いは、この画との対面にある。この画の由来や掲揚場所、説明板などの背景については、秘話がある。
アーモストでは卒業後三十年を迎えた卒業生(通常は一クラス)が、クラスから一人を選んで肖像画にする習わしがあった。新島の一八七〇年クラス(五十三人)は、一九〇〇年がその年に当たった。クラスではそれ以前から「わがクラスは新島」で一致していたという。すでに新島は死後十年を迎えていたので、彼に忖度(そんたく)する必要は何もなかった。クラス仲間にとっては、新島は早くから「輝かしい同級生」であった。
一九〇一年、外部の画家(A・E・スミス)が、新島最晩年のやや暗い病身の写真をもとに描(かき)あげた。画は同年の卒業式(学園教会、現カレッジ・ホール)で大学に贈呈、除幕され、旧図書館(現モーガン・ホール)の二階読書室に掲示された。この画が今の場所に移ったのは一九〇九年五月七日で、この日、二度目の除幕式が行なわれた。
日本と交戦中の第二次世界大戦中、西海岸の日系人は排日移民法で厳しい差別に苦しめられた一方で、アーモストでは「敵国人の画だから取り外せ」との要求はいっさい出なかったという。新島のキャラクターだけでなく、アーモスト側の厚遇に拍手を送りたい。
これに対して同志社は先の大戦中、英語を嫌う政府や軍部からの外圧があったからとは
いえ、学内の同志社アーモスト館を「新島記念会館」と改称した(戦後、すぐに元に戻した)。戦時中の対応がアーモストと同志社では対照的であったことには、忸怩(じくじ)たる想いがする。
一九三二年、アーモスト大学は同志社に同志社アーモスト館を寄贈した。同時に新島に関する英文タブレットをアメリカで製作し、建物に添えた。現在も中央ホールに掛けられたそのタブレットには新島が “a brilliant son”(輝かしき息子)と称えられている。これがアーモストにおける新島への公式評価である。
いずれにせよ、新島の肖像画への評価は一貫して不変で、その場所は終始、不動であった。一方、相(あい)対する正面左側は時代により変遷があり、E・ヒッチコック学長、ついで卒業生で唯一人、大統領(第三十代)となったC・クーリッジ、そして現在は初の女性教授(Prof.R.R.Oliver)の画が掛かる。それ以上に戸惑うことは、訪れるたびに正面の壁に掛かる肖像画が増えていることである。六枚から七枚、八枚になっており、ずいぶんと賑やかになった。
この間、新島の肖像画が「名誉ある場所」から剝(は)がされたことが一度だけある。同志社への「里帰り」(二〇〇二年)のためである。私はその交渉のためにこの地へ単身出張したが、さいわいにもアーモスト側の理解が得られ、借用ばかりか原寸大の複製(レプリカ)制作の許可もとれた。
そこで学内(ハリス理化学館)で一か月間、展示した後、忠実に複製した油彩画を京都の美大教員に作成してもらった。仕上がったレプリカは、二〇〇四年に栄光館(今出川校地)のファウラーチャペルで除幕式(三度目の)を挙げ、同館正面の右側に掛けた。ただし、説明版はアーモストのものをそのまま流用(複製)せずに、私があらたに作文した。ジョンソン・チャペルの説明版の内容は、あまりにも肖像画とかけ離れているからである。しかし、アーモストで肖像画と対面する同志社人は感激が先行するためか、その矛盾にはほとんど気づかない。
アンドーバー神学校(アンド―バ―)
アーモスト大学を卒業した新島は、かつて高校生活を過ごしたアンド―バ―に戻って神学校に入り、牧師になる訓練を受けた。同校はアメリカ最古級の神学校(会衆派)で、一八〇八年にフィリップス・アカデミーの校地に創立された。ハーディはこの神学校の理事をも務めていたので、新島の入学は既定路線のはずであった。
注目すべきことに、八年に及んだ新島のアメリカ留学は、三年間のアーモストでの生活を除く五年近くはアンド―バ―を拠点とした。その間、新島はいまだ高校生であった一八六六年十二月三十日に学園教会の神学校教会で洗礼を受けた。この教会は同じ校地にある大学院校舎(ピアソンホール)内の一室に設けられていた。
洗礼を授けたのは神学校の看板教授、E・A・パークである。彼が学内で居住した宿舎は、今もパーク・ハウスとして現存する。高校生の新島も何度か同宅に招かれたと思われる。二十年前に出版した拙著『新島襄と建学精神 「同志社科目」テキスト』(三四頁)では、授洗した牧師はおそらく神学校教授のひとり、と推測するに留めていたが、その後の調査でパークであることが突き止められた。
以上、新島が受けた三つの学校での教育を総括するために校訓に着目したい。高校は“Non Sibi”(Not for oneself.)、大学は“Terras Irradient” ―――前者は「自分のためではなく(他人(ひと)のために)」、後者は「(自分よりも)世を照らせ」である。大学院は「汝の隣人を愛せよ」との聖書の教えが校訓に代わる存在であったと考えられる。
すなわち八年間にわたるアメリカでの留学生活は、新島に利己心を捨てて「他人への愛と奉仕」に生きることを教え、七五三太をまったく新しい人格とでも言うべきジョゼフに生まれ代わらせたのである。
コングリゲーショナル・ハウス(会衆会館、ボストン)
アメリカにおけるジョゼフの最後の変身は、宣教師である。所属したミションは会衆派が立ち上げたアメリカン・ボード(ABCFM)で、アメリカ最古のミッションである。ミッションの本部(事務室)は一八一〇年の創立以後、ボストン市内で移転を重ね、新島の死後、一八九五年に現在地に落ち着いた。全世界に派遣された宣教師たちとの連絡や通信は、ここを拠点になされた。現存するアメリカン・ボードの旧本部(Congregational House)は、ボストンの中心街、それもハーディ旧邸や州議会議事堂に近い。
一九六一年、他教派のミッションと合同してアメリカ合同教会海外宣教局(UCBWM)を立ち上げた際、その本部がニューヨークに置かれたのに伴い、旧本部の一部(二階)が会衆派図書館としてミッションの記録、書類などを保管する場に生まれ代わった。ちなみに膨大な書簡類の保管はハーバード大学(Houghton Library)に委託された。
会館玄関に掛けられている石板には、アメリカン・ボードを代表する功労者の名前が刻まれている。もちろん理事長を務めたハーディの名も混じる。さらに彼の胸像が、館内閲覧室の正面壁にパーク教授と並んで飾られている。ハーディは生活全般の面倒を見た「アメリカの父」、パークは新島に洗礼を授けた「信仰の父」。いかに新島が恵まれた出会いを享受できたかが、この一事から窺える。
新島がニューイングランドで生活した世界を「会衆派ワールド」と呼ぶならば、その起点は上海でのワイルド・ローバー号乗船である。当時、イギリスに帰る船に便乗する機会もあったが、幸か不幸か直前にキャンセルされた。もしも彼がニューイングランドではなくオールド・イングランドに渡っておれば、同志社は立教学院同様に英国聖公会系の学校になっていたかもしれない。
新島に対するハーディの最後の貢献は、牧師として帰国させるために新島を(自分が理事長を務める)アメリカン・ボードの宣教師(正確に言えば准宣教師)に抜擢(ばってき)したことである。それまでこのボードはネイティブ以外を宣教師に任命したことはなかった。准宣教師とは言え、新島が外国人初のメンバーになれたのは、アメリカの父の力が大きかったはずである。留学中の新島に提供し続けた経済的支援同様に、帰国後、同志社校長となったジョゼフ対しても、引き続きハーディ家が負担した。この結果、新島には生活上の不安は、宣教師の定年までまったくなかった。そうした宣教師としての特典は、帰国直前の「ラットランド・アピール」でも大いに発揮された。
グレイス教会(バーモント州ラットランド)
中高生の参加者たち
高永 晃広さん(同志社香里高等学校2年生)
新島が宣教師に任命された年のアメリカン・ボード年次大会は、バーモント州ラットランドにある会衆派の教会で一八七四年十月下旬に開催された。「ラットランド・アピール」はここで行なわれた。
大会は一週間にわたって開催され、最終日(十月九日)には、海外に派遣される新人宣教師の送別式が挙行された。そのひとり新島も宣教師として日本に赴任する挨拶を求められた。彼は型通りの告別の辞に代えて、「帰国したらキリスト教主義の学校を創りたい」と涙ながらに異例の募金アピールをやってのけた。彼の志に感動した会衆の中から次々と献金の申し出があり、五千ドルの献金が集まった。これが開校資金となって、翌年(十三か月後に)寺町丸太町上(アガ)ルに同志社英学校(男子校)が誕生したので、以後、ラットランド・アピールはラットランド伝説となって広く語られるようになった。
ちなみに、当時の為替レートでは一ドルはおよそ一円であったが、五千ドルを現在の日本円に換算するのは至難である。何を基準にするかで数字は大幅に変わるが、当時の為替レートで約五千円に相当する五千ドルが億単位の巨額であるのは確実である。例えば、同志社は最初の所有地、旧薩摩藩邸(約五千八百坪。現今出川校地の中核部分)をわずか五百五十ドルで入手できた。五千ドルの貨幣価値は、東京遷都のあおりを受けて衰退必至と見られた京都では、とりわけ大きかった。
神学校新卒の新人、しかもアジア人がこれほど巨額の寄付を開校資金として得られたのも、宣教師に取り立てられてミッションの大会に臨めたからである。大会の会場で新島を会衆に紹介したのもハーディであった。すべてはハーディ効果、すなわちハーディ・ワールド内での事柄である。こうした事実を認めれば、ハーディこそ同志社の影の創立者である。
ただし、この出来事はとかく誇張されやすいので、注意が必要である。たとえば、「その場で五千ドル」とか「一声五千ドル」といった捉え方。会場で予約を含めて多額の献金が寄せられたのは事実であるが、実際は二千ドル代か三千ドル代であった。教会の二百年史には「三千ドルがすぐに予約され、現在、同志社として知られる京都トレーニング・スクール〔京都牧師養成校〕が生まれた」とある(This Far By Faith,p.31,1988)。
ちなみに、アピールから一年後に同志社が京都で生まれたことを捉えて、新島の訴えを「京都に学校を開きたいので、献金をお願いしたい」と解釈するのが一般的であるが、それはない。新島の赴任地は、当時すでに神戸と決まっていたからである。そこで彼は、「〔帰国後、私が奉仕しようとする〕神戸の教会は教育機関がありません。その教会には何らかの学校が必要です」と訴えている(『同志社百年史』通史編一、十九頁)。実際には帰国後、新島は大阪赴任となり同地で開校のために奮戦するが頓挫したため、やむなく京都に目が向けられたのである。京都と同志社はほぼ完全な「ミスマッチ」であったため、新島にとって京都立地は最初から想定外の構想であった。奇跡が実現したのは、山本覚馬の支援があったからである。
献金額に戻ると、席上献金がぴったり五千ドルになったわけではない。後日、ハーディがミッションを通じて追加の募金を呼びかけた結果、五千ドルになった、あるいはハーディが五千ドルにしたと考えられる。
さらに、会衆の数にしても同様で、新島の回想では二千人から数千人のズレがある。実は、従来からこの大会がラットランドで開催されたと伝わるものの、その会場は一世紀間、特定されなかった。ようやく創立百周年を迎える直前にO・ケリー教授(本学文学部)の尽力で突き止められた。その結果、これまでのラットランド伝説に誇張が混じることが判明したわけである。その好例が会衆の数で、グレイス教会の収容力は九百人以下である。
会場が特定されてから現在に至るまでの半世紀、教会と同志社の間でさまざまな取り組みや交流がなされてきた。その一例が、一九八三年に教会から同志社へ新島襄の肖像画(石版画)が贈呈されたことである。端麗な新島の佇(たたず)まいがよく表現された名品である。画の制作に関する詳細はいっさい不明であるが、ラットランド伝説が教会に波及した効果として、かなり早い段階で制作されたのであろう。しかし、いつしか忘れられた存在になり、教会の地下室の倉庫あたりに死蔵される結果になった。同志社創立百周年を目前にラットランド伝説が教会でも蘇った結果、再発見されたのである。
今では同志社の存在は教会では明白になり、先年、私がツアーガイドとしてグレイス教会の日曜礼拝に参加した時も、時の牧師が両手の指でフロアーを指しながら、「同志社はここで生まれた!」と絶叫さながらに強調したシーンを私たちは目撃した。誇張表現とは言え、この地はたしかに同志社の源流である。あえて誕生地と言うならば、「誕生に先立つ『受胎』」と言うべきあろう(『同志社百年史』通史編一、九頁)。
それに関連する事例を挙げれば、同志社が創立百二十五年を迎えた二〇〇〇年に全国紙と地方紙に出した一面広告(日付けは十月九日)である。私はグレイス教会が「源流」であることを周知させたくて、ラットランド・アピールをコラムに仕立てた。幸い広告は学内で好評だったのでポスターに仕立てた。今でも学内で貼り出している部署や学校がある。
いまひとつ、グレイス教会の名を残すために私が採った方策がある。二〇一〇年、中学校の岩倉校地移転に伴い新築された中高共通チャペルを「グレイスチャペル」と命名した一事である。
昨年(二〇二四年十月十三日)も同志社はアメリカツアーでこの教会を訪ね、記念に本学所蔵の「ラットランド集会想像図」(同志社女学校教諭・伊谷賢蔵筆)を陶板(製作は大阪市の大塚オーミ陶業株式会社)にして贈呈した。陶板にしたのは野外(会堂玄関前の芝生あたり)に設置できるようにとの配慮からであったが、今回、再会できた陶板は堂内一室の片隅に置かれていた。
ちなみに、原画のタイトルが「想像図」とされているのは、半世紀前の制作、すなわち会場が不明の時期の作品であったためで、絵柄は実際の教会の内装とはまったく相違する。
なお、今回の訪問では陶板は話題にならず、披露もされなかった。かえって、記念礼拝の後に持たれた同志社記念集会では、同志社の四つの高校からツアーに参加した生徒が主役で、坂野(ばんの)紫(ゆかり)さん、高永(たかえ)晃広(あきひろ)君、福田香帆(かほ)さん、金(きむ)示殷(じうん)さんが壇上から短くそれぞれの志や夢について英語スピーチをして、好評を博した。
いざ帰国(ボストンから横浜へ)
一八七四年の秋、帰国を控えた新島は、ハーディの息子であることを自他ともに認知するためにJoseph Hardy Neesimaと名乗り始める。ジョゼフの命名者がハーディであっただけに、ミドル・ネームを入れることに関してもハーディの勧めがあったであろう。なにしろ「可愛い息子」同然の子であるから、名目的にも家族の一員であってほしいと望んだ可能性が高い。
いずれにしろ、新島は七五三太として凾館から出国し、十年後、ジョゼフ・ハーディ・ニイシマとして横浜に帰国する。横浜に戻った新島は、なんとかジョゼフを日本名(たとえば「約瑟」)にしたかったが、思うように漢字変換できなかった。そこでジョゼフを愛称であるジョーに戻して、襄とした。新島襄の誕生である。七五三太は神田一ツ橋の生まれであるが、襄は横浜生まれなのである。
それだけに同志社の創立に関しても日本語では「創立者は新島襄」であるが、英文では「ジョゼフ・ハーディ・ニイシマによる設立」、つまりはハーディの息子が創設したことになる。
こうした消息を定着させるために私は一九九三年、室町校地に寒梅館が竣工したときに、館内に誕生した大小ふたつのホールの名称公募に「ハーディホール」と「テイラーホール」で応募した。大ホールはジョゼフ、小ホールはジョーの命名者の名をあてた。私的には、大小ホールをワンセットで捉え、新島の父と兄(実年齢では十四歳上)に相当する恩人の名前で呼ぶことに意味があると思った。さいわい大ホール名は採用されたが、小ホールは「クローバーホール」と決定した。テイラーの名前は落選したものの、ハーディの名が同志社学内で広く知られる一助となったのは幸運であった。
ちなみに、学内でハーディの名前が一番知られているのは、同志社小学校である。生徒のクラスがデイヴィスクラス、ラーネッドクラス、そしてハーディクラスに分けられているからである。したがってとりわけハーディクラスの児童にとっては、ハーディは身近な存在である。
今回のツアーは、新島がアメリカで送ったハーディ・ワールドの一端を現地で垣間見る貴重な機会となった。参加者は、ジョゼフの「聖地巡礼」を通して、彼がどこにあっても周辺の者から敬慕された「輝やかしい」存在であったことを確認した。同時に新島の変身や志の形成がニューイングランドでどのようにしてなされたのか、その経緯や消息をも体感できた。
参加者たちにとっては、今後は新島の志を継承する「小新島」となって、「愛と奉仕」に立脚する彼の志をそれぞれの立場でどのように実践していくのか、それが問われた旅であった。
(写真は同志社創立150周年記念事業事務室提供)






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