同志社クイズ【 Level 1-2 】

前回の同志社クイズLevel1-1はいかがでしたか?

今回は少しレベルが上がっています。
前回のクイズがまだの方は合わせてチャレンジしてみてくださいね!

同志社クイズ【 Level 1-2 】

各質問の正しい答えを選択枠の中から選んでください。
Please choose the correct answer for each question below.



Q1,
 1875年4月5日、新島は気分転換に、最初の赴任地大阪から京都見物に出かけた。偶然、京都府顧問に出会った。これが、新島にとって運命的な出会いとなる。顧問とは誰?


 A: 山本覚馬  
 B: 槇村正直


Question 1,
 On April 5, 1875, For a refreshing change Neesima went to visit Kyoto from first destination,Osaka. By chance, he met an adviser to Kyoto Prefecture. This was a fateful encounter for Neesima. Who was the adviser?

 
 A: Kakuma Yamamoto
 B: Masanao Makimura


Q2,
 1879年2月11日、初めて勝海舟に会い、キリスト教教育への協力を要請した。その時、勝は新島に「お前さんは理想とする教育を何年で成就させるつもりか」と問うた。新島の答えに満足した勝は「それなら賛成してやろう」と答えたという。新島は何年と答えたのか?


 A: 50年  
 B: 100年  
 C: 200年


Question 2,
 On February 11, 1879, Neesima met Kaishu Katsu for the first time and requested cooperation in Christian education. At that time, Katsu asked Neesima, "In how many years do you intend to achieve your ideal education?" Katsu was satisfied by Neesima's answer. What did Neesima answer?


 A: 50 years  
 B: 100 years  
 C: 200 years


Q3,
 1864年7月の深夜、新島は福士卯之吉の手引きで函館沖に停泊するベルリン号に乗り込むことに成功。翌朝、役人の船内検査もあったが、新島は船内物置に隠れていて幸いにも発見されず船は上海に向け出航することができた。さて、この船の船長名は?


 A: セイヴォリー  
 B: ビッドル


Question 3,
 At midnight in July 1864, Neesima succeeded in boarding the Berlin, which was moored off the coast of Hakodate, with the guidance of Unokichi Fukushi. The next morning, there was an onboard inspection by the officials, but Neesima had hidden in the onboard warehouse and he was fortunately not found and the ship was able to sail for Shanghai. What was this ship captain's name ? 


 A: W.T. Savory  
 B: J. Biddle







↓ 解答はこちら ↓




《 解答 》
1,A
2,C
3,A




◆解説,1
山本覚馬は会津出身で、戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)では薩長軍と交戦し、捕獲、幽囚された。しかし、その識見と開明性が買われ、維新後には京都府知事、槇村(まきむら)正直の顧問格(いわば補佐官)に取り立てられて京都の近代化に貢献した。宣教師にも接触し、キリスト教にも早くから理解を示したので、新島の学校設立案に共鳴し、知事の説得にもあたってくれた。


◆解説,2
新島は同志社大学設立運動の支援を得るため、勝海舟に数回、面談をして協力を要請した。物を見る海舟のスパンは百年単位であったので、「200年」との新島の回答は、彼を満足させたであろう。ただし、異論もある。両者の会談をとりもった津田仙によると、新島の答えは「300年」であったという。その点、海舟の門弟であることを自認する徳富蘇峰は、海舟の真意を汲むかのように、自分で建てた墓碑(多摩霊園)に「待五百年之後」と刻む。


◆解説,3
新島が函館から密出国する際の最大の日本人幇助(ほうじょ)者は貿易会社(ポーター商会)勤務の福士卯之吉 -後の成豊(なりとよ)- である。彼は長崎のトーマス・ウォルシュ商会のセイヴォリー船長(ベルリン号)を紹介してくれた。後に密航を手伝ったことが露見し、船長は上海を経由して長崎に戻るや馘首(かくしゅ)され、帰国させられた。一方、福士はその後、福士成豊(なりとよ)と改名して北海道の名士となり、帰国後の新島と旧交を暖めている。なお、J・ビッドルは、アメリカ東インド艦隊司令官で、1846年に日本開国を迫るために浦賀に来航した。1857年にM・C・ペリーが日本に来航する11年前のことである。